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かつて、合気道の稽古を見取って、「動く禅」と
表現された方がいらっしゃったとのこと、
はたして、我が道場の稽古を見て、そう思ってくださる方は・・・?
初段を取得した頃、
二代道主植芝吉祥丸先生、
現道主(当時、本部道場長)植芝守央先生にご挨拶に伺った際、
本部道場の稽古に出席させていただいた。
3階の大道場では、稽古前からピンと張りつめた空気が漂い、
稽古前に、開祖植芝盛平翁の書を掲げている正面に足など向けて
柔軟体操をする姿などあるはずもなく、
稽古後に、風呂上がりの如く首からタオルをぶら下げる輩もいない。
植芝先生が入場される時は、もとより
退場される時も一斉に坐礼がおこなわれる。
稽古中、先生は峻厳にして、細かい説明もほとんどなさらない。
(注;我が道場での講習会では、懇切丁寧にして、とても優しい)
稽古する者も、ひたすら黙って、技を繰り返すのみ。
ただ聞こえるのは、自然に出る低い気合いだけ。
圧倒されながらも、気持ちの良い汗を流した。
話に聞いた「動く禅」とは、こういうことなのか。 <E.H>
相手が自分より段級が下位であっても、
1から10まで「ことば」で説明をしながら稽古をする必要があるのか?
たとえ、親切心からでも、相手は動きや流れをさえぎられ、混乱もする。
また、「頭で理解しよう」と理屈ばかりが先行してしまう。
満足するのは、自分ばかり。
指導者の説明には、時に応じて、人に応じての配慮がある。
あえて、言う、言わないという場合もあるはずだ。
寡黙が良いといっても、相手を無視するような「知らんぷり」は論外。
真に上級者ならば、「ことば」ばかりでなく、
動きの中でも、重要なポイントを伝えることもできるはずだ。
とにかく、「教えてやろう」などという態度は、
厳しく言えば、「おごり」以外の何者でもない。
たとえ、級や段が違っても、稽古をおこなう上では、対等である。
お互いに相手から学ぶことこそが大切だ。
黙々と、「動く禅」をめざして精進しようではないか。
E.H
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